新世代のフォトグラファー 奥山由之

奥山由之はまだ24歳という若さながら、新進気鋭の写真家として名高い人物である。

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「A REAL UN REALAGE」(パルコ出版)より。



私たちは普段いろいろな場所で写真を見る。
その多くはスタジオで綺麗にセッティングされた写真であることがほとんどだろう。
今の広告などで使われる写真のほとんどが恣意的に作られたものである。
そんな中、彼の写真は一種の違和感をつくりだす。

デジタルが一般的になりつつある現代で彼はあえてフィルムカメラに拘る。
フィルム独特の写真に走るノイズは見る側の心に深く突き刺さってくる。
どことなく感じる懐かしさと寂しさが心地よく映るのだ。
彼が映すそうとするものはその空間に根付く感情である。
ただひたすらそこに執着し、真摯にとりくむ彼の姿勢はまさに今後のフォトシーンを担う者の姿と言えるだろう。

 

 


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新海誠 その魅力

国内外から高い評価を得ているアニメーション作家・新海誠監督の最新作「君の名は」が、2016年8月に全国で公開されることが決まった。新海監督は12月10日、東京・有楽町の東宝本社で行われた2016年度ラインナップ発表会に出席し、声優を務める神木隆之介、上白川萌音川村元気プロデューサー、川口典孝プロデューサーとともに会見した。 

雲のむこう、約束の場所」「秒速5センチメートル」「言の葉の庭」などで知られる新海監督にとって3年ぶりとなる新作は、夢で見た少年と少女が経験する恋と奇跡の物語。山深い田舎町で暮らす女子高生の宮水三葉はある日、東京で暮らす男の子になる夢を見る。一方、東京で暮らす男子高校生の立花瀧も、行ったこともない山奥の町で暮らす女の子になる奇妙な夢を見た。「まだ会ったことのない君を、探している」というキャッチコピーのもと、出会うことのない2人の出会い、少女と少年の奇跡の物語を圧倒的なスケールで描く。

http://eiga.com/news/20151210/17/

eiga.com

 

新海誠さんの最新作「君の名は。」が発表されました。
新海誠さんの作品といえば何と言っても背景美術の素晴らしさです。
ご本人のこだわりも非常に強く、ロケハンなどでは1万枚以上の写真を撮影していると聞きました。美しい背景と光の表現が心に響きます。

新海誠さんは対比を描く人というのは私の印象です。
物語も背景もそうです。例えば「秒速5センチメートル」のように男女の思考や行動などを追っていき、都会と田舎の景色の違い、暮らしのスタイルに目を向けたりしていきます。まあ「星を追う子ども」など現実とは離れたファンタジーを描いていくなかでもそれは変わらず、何かしらの対比が存在している。
対比とは選択の提示でもある。
どちらを選ぶのか、どう生きていくのかそれを彼独自の視点から美しく描き、私たちに提示してくる。その中で葛藤やあるいは憧れなどを抱く。それこそが新海誠という世界の魅力なのだろう。

 

 

 


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石井岳龍の世界

Electric Dragon 80000V Trailer - YouTube

www.youtube.com

 

石井岳龍という映画監督をご存知だろうか?
最近友人に勧められたままこの、石井岳龍監督の作品「エレクトリックドラゴン80000V」と「逆噴射家族」を見ました
両映画なんという「個性」のかたまり
ジャブは一切なし。言うなれば強烈なストレートを常に全力でぶつけに来るようなものでした。ひたすら全力疾走。これが俺の映画だ!!!と耳元で叫ばれているよう。

ここまで強烈な個性というものを最近はなかなか見なくなりました
それはあらゆる業界でもそうです
昨今がどこか定型化してきている社会というのもあるでしょう
何をするにしてもテンプレートがつきまとい、それに従うことこそが幸せだと疑わない。(馬鹿のひとつ覚えのようにA1明朝使うデザイナーとかね

テンプレートは長い長い年月をかけて築き上げてきた一本の道なのだ。
だが、この強烈な個性はそんな常識を吹き飛ばす。
石井岳龍は僕らの常識を右ストレートでノックアウトするのだ。

 


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ガンバの大冒険 ブランドの方向性

予期せぬ大コケとなってしまった映画もある。『GAMBA ガンバと仲間たち(以下『GAMBA』)』だ。なんと596スクリーンで公開されながら、土日2日間での動員は約5万9,000人、興収は約7,500万。1スクリーンあたりの動員が2日間で100人弱という、目を疑う結果に沈んだ。

news.biglobe.ne.jp

 

少し前にフルCGアニメとして話題になったガンバですが、蓋を開くと大赤字という結果となってしまいました。
動きのあるいいアニメだと思いましたが、何がいけなかったのでしょうか?

 

いくつか爆死理由を考えてみました

何よりガンバの大冒険は私もアニメを見たことがありましたが、キャラデザがまったく違うのでノスタルジーなど微塵も感じない。
キャラデザもネズミというより人に近い感じがして違和感、むしろ怖いくらいです。
おそらく親世代の人たちがガンバの名前で子どもを連れて見に来てくれると踏んでいたのでしょうが、ここまで別物になってしまったのでは入り口になり得ません。
他には広告がまったくとっていい程少なかった。二子玉駅周辺と田園都市線の車内中吊りくらいでしか見た記憶がありません。インターネットで情報が簡単に手に入るとはいえ、まだまだメイン媒体はテレビ、もしくは紙物の広告だったりします。
知られなければないのと一緒な世界です。
より広告に力を入れるべきだったのではないのかと思いました。


どの年齢層を狙っているのか曖昧、広告しなさすぎ
要約するとこんな感じでしょうか
最近、同じような作品がありました
STAND BY ME ドラえもんです。
あの映画が成功したのはドラえもんというネームバリューがあってこそだと思います。何よりどの層が見るのか、どういった広告戦略をするのかしっかりできていました。
ちなみにあの広告のデザインはエンブレムで話題になった佐野研二郎さんだったりします。本当にいい仕事をする人です。まあ、それは置いておくとして、そういったブランディングの方向性が何よりも今回の爆死に繋がったのではないかと思います。
ほんとにキャストもストーリーも良かっただけに惜しい作品でした……

 

 

 


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「Project Itoh」<harmony/> 感想

 

21世紀後半、大災禍と呼ばれる世界的な混乱を経て、人類は大規模な福祉厚生社会を築き上げていた。医療分子の発達で病気がほぼ放逐され、見せかけの優しさや倫理が包むユートピア。そんな社会を拒んだ3人の少女は餓死することを選択した。それから13年。死ねなかった少女霧慧トァンは世界を襲う混乱の影にただひとり死んだはずの少女ミァハの影を見る。

 


というわけで伊藤計劃原作 ハーモニー 見てきました。

所謂ユートピアを舞台にしたSF作品。
医療が発達し、病気や怪我のない世界。それは自分の体を他人に支配されているようで息苦しくて仕方ない。
自分の体は自分のもの。「私」は「私」であるということ。
それを主張しようともがく少女たちはどこか思春期の自分を思い出させる。
「私」であることの固執は皆が経験するものだろう。
そんな時期に自分というただ一つ自分だけのものを公共の財産としてコントロールされる。それは大人たちの思いやりとは裏腹に苦痛を与えることになる。しかも、その当人たちはそれを理解しない。否、理解しないというより忘れてしまっているのだ。
つまり思いやりに満ちた天国のような擬物なのである。

「私」とはなんだろう。
考える限りの大きな枠組で「私」を定義するとしよう。

魂?あるいは脳の中で起きる現象?生物としてのブログラム?意識?それとも意思?

ではその「私」が消失したらどうなるのか。それは生命の死なのだろうか?
「私」という魂、意思、意識を失くすことで社会はどうなるのだろうか?
これがこの物語の大きな鍵となる。

考えてみて欲しい。
この世界は生きることは容易く、死ぬことは難しい。
病気、怪我、それらを誘発する酒、煙草ありとあらゆるものが規制され管理されているのだ。だが、たったひとつ管理されていないものがある。
それは、人がもつ悪意だ。
息苦しいまでに思いやりに満ちた世界においても人の悪意は必ず存在する。
悪意はやがて凶器となり牙をむくのではないか?
疑心暗鬼にならない方がおかしいのだ。
この天国のような擬物で生きるならなおさら……

本筋を語るのはここまでにしておこうと思う。
物語を語る上で欠かせないのはロジックだ。
そして、このロジックは語ってしまえば、その魅力が消失してしまう。
つまりミステリ的な展開を持っているのだ。
気になる方はぜひ原作を読んでみて欲しい


 

……忘れてましたがこれはあくまで映画の感想を書く場でした。
一言で表すなら「原作読もう」です。
つまりそういう映画でした。
こういうったSF作品はいかに上手く世界観を見ている側に素早く浸透させるかが勝負だと思うのですが、映像、音、文字と小説以上に情報量があるにも関わらず、伝わりにくい構成となっています。
セリフなどはほとんど原作と変わりないのですが、いかんせん詰め込みすぎて微妙な感じになってしまっています。
キャラに無理やり語らせているという感じです。
ここまで中途半端になってしまうのなら、逆に雰囲気重視で原作読んでる前提、初見バイバイな感じで語らなさすぎくらいの方が良いくらいです。
あと、微妙に改変があり無駄な百合要素をぶっこんできてます。
原作内ではそういった描写はないが、見る側に想像させる要素はあります。
ですが、ここまで具体的に描かれてしまうと何だか狙いすぎている気がしてキツイ。
動きも劇場映画にしてはあまりありません。
そのわりに日常風景に3DCGを多用しています。
出来が良ければそれでもいいのですが、動作がものすごく違和感だらけです。
それはもうわざとヤってんのかな?と疑うレベル。
アニメーションの醍醐味である動きを殺しに来てます。
アクションがあるような作品ではないのでCGはミスマッチだったのかなと思います。
シドニアの騎士くらい動いていくれるならCG大歓迎なんですけどね……

何となく予算やらアニメーターの確保やらリテイクやらと裏事情がありそうな雰囲気です。虐殺器官の例もありますし、アニメ作りはやっぱり大変なんでしょうね。

 

あんまりネガティブな意見はよくないので、ポジティブな意見を続けます。

建築物の造形、色が非常にユニークで面白いです。
よくあるようなSF的建築物ではないのですが、未来感がとてもでています。
所々、見れるエフェクトもカッコよく雰囲気にあっています。
声優さんの演技がとてもいい。
ミァハの声はもうキャライメージに良く合っていますし、とても印象深いものになっています。
EDの曲もしんみりとした感じで世界観をよく表現していると思いました。
イラストやデザインなどは文句なしです。


とまあ、色々好き勝手書きましたが、こういったSFの雰囲気が好きな人はきっと楽しめる作品になっていると思います。読んでいなくても楽しめるはず。
ぜひぜひ見に行ってはいかがでしょうか?

 

 


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エル・リシツキー

 ロシア革命期、当時のロシアの識字率は低く、そのために言語そのものを視覚表現によって伝えることを求められた傾向にある。
そういった特性をもって生まれたロシア・アヴァンギャルドという芸術運動を代表する作家として、やはり一番に思いつくのはエル・リシツキーである。
彼を語る上で欠かせないものが詩人マヤコフスキーと共同編集し作り上げた「声のために」という書籍である。

 

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この書籍は文字の読めない人に対しても、見るという行為を通して、直感的にそこにあるものを理解させることを理念に制作されたものであり、現在の視覚言語という概念を作りだした。
また書籍として初めてインデックスシステムを導入したことも有名な話である。
この書籍は後世に多大な影響を与える。
まさに革新そのものであった。

 エル・リシツキーは「見る」という行為に長けた人物である。
当時のロシアでの識字率の低さは、つまるところ就学率の低さに起因する。国がそういった教育などの法整備をする余裕が、その当時になかったこともあるだろう。
つまるところ、文字を学べる者は暮らしに余裕のある裕福層だけである。
そういった背景とその頃の世間に渦巻いていた平等な社会を築こうとする動きをエル・リシツキーはしっかりと見ていた。
だからこそ、一般大衆に対しても、視覚言語を利用し、平等に理解が可能な「声のために」を制作したのではないかと私は思う。
自分を取り巻く環境を観察し、それにもっとも望ましい答えを導き出す。
まさに「見る」という思想である。

 人に伝えるためにはどうすればいいか。
それが現代デザインの原点であると私は考えている。
伝えるべき対象をどのように見つめるのか、どのように見るべきなのか、伝えるべき対象と自分との関係性を明白にし、そこからどのように見せるべきか、ということを導き出していく。
この一連の過程こそ、エル・リシツキーの思想を体現している。
それほどまでにエル・リシツキーが現代に残した「革新」は現代デザインに深く根付いてる。
そしてこれからも、それは生き続けていくことだろう。

 

 


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戦時と現在をつなぐポスター文化

 

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世界大戦時で見られるポスターには、その時代の特徴を如実に表現されている。 作家の意思は関係なく、国が定めた全体主義の思想を人々に植え付け、ひとつの方向へと導いていく。 まさにプロパガンダとしての役割を作品ごとにもっている。

 イメージ画と文字、メッセージによって構成されるポスターは瞬間的に見たものに作用しなくてはならない。 そのため、戦争時のポスターはより目を引くような色や簡潔でインパクトのあるキャッチコピーが好まれた。 また、戦時のポスターなどの宣伝行為は国内、国外の両者に対して、行われる。 視覚的要素を巧みに使い、好意、親近感、または強い嫌悪や憎悪など感情を見る者に起こさせる必要があるのだ。 そういった背景からイラストレーションのような具体的な物事を想起させやすい手法は好まれて使われていたことが分析できる。

これらのプロパガンダ・ポスターの表現方法は後の現代ポスターの発展に大きく貢献した。 他国への嫌悪、自国への賞賛、これらが各国でせめぎ合い、ポスター文化はより高次なものへと進化していったのである。  

 他国への文化を否定する戦争が皮肉にも文化を育てる。 戦争は悲しく、そして醜い行為である。 それと同時に、こういった文化の発展に貢献することも、また現実として存在している。 戦争の皮肉を体現しているプロパガンダ・ポスターは、そういった現実を物語っているのだ。 多大な犠牲のもとに、現在の高次な文化が存在していることを決して忘れてはならない。

 

 


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