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コンセプチュアルアートとしての写真

コンセプチュアルアートと言えば最初に名が挙がるのは「マルセル・デュシャンの泉」。

あの有名な便器であり、アートって言えば何でもアートになるんだよぉ!!の元凶。

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かい摘んでこの作品の概要を説明するなら、どこにでもある便器にサインを書いただけの芸術作品。
それまでの芸術は私達が思い浮かべるような美しい絵画などを指す言葉でした。
そんな芸術に対する皮肉のようなこの作品は、その観念的な側面を評価され今日まで語り継がれるものとなりました。
このような作品そのものよりも観念的な側面を重視するアートをコンセプチュアルアートといいます。

 

この泉を皮切りに写真の世界にもそういったコンセプチュアルアートの考えが入り込んでくるようになりました。
1960年代から70年代にかけての写真の有り様は、パフォーマンスやその場限りの芸術作品をより多くの人に喧伝するための手段でした。
コンセプチュアルアートにおける写真のあり方は、写真の技術や誰が撮ったかではなく、物事を写すことを重視するようになっていったのです。

その結果、写真は記録をするための非芸術的な生産物のようになっていきました。
重用なのは写真で表現される行為そのものであり、その結果、スナップ撮影のような無造作に撮ったように見える写真が増えだしました。
これらの写真は、その場限りの芸術に変わり、ギャラリーや雑誌を飾るようになり、それが記録にもアート作品になりうる可能性を示すようになったのです。

こうしたコンセプチュアルアート写真は写真における芸術の基準を覆し、より平凡な日常の物事に寄り添うアート作品のあり方を示しました。
それまでの美しくなくては芸術ではない。技術がなくては芸術ではない。そう言った良いとされる絵を創る義務からの開放の瞬間でもありました。

写真が芸術の範疇に入ってきた時、それはアートの記録であると同時に作品そのものでもありました。この多義性こそが現代にも受け継がれ、今も想像力豊かに利用されている遺産としてコンテンポラリーアートに息づいているのです。

 

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