ブリングリング

リリィ・シュシュのすべてと花とアリス - 腰砕けどろっぷあうと

 

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こちらも花とアリスと同じような年頃の少女たちが主人公の作品である。

しかし、こちらはより動的な世界に構成されている。

セレブに憧れ窃盗を繰り返す主人公たちの緊張感があるようでないアンバランスな行動には見ている側の方が緊張してしまう。

高価な服やアクセサリーを身にまとう彼女たちは特別な存在のように見えてくる。ファッション雑誌に登場するモデルのようだ。

そんな誰もが羨望する特別な存在に対して、憧れや嫉妬をするのは人間誰しもが感じることである。

まして思春期の世代にはそれが如実に現れる。

そういう意味では花とアリスもブリングリングも根本的な部分は同じなのかもしれない。

「誰かにとって特別でありたい」という感情だ。

両者は特別になりたいという欲求の矛先とその結果が違うだけなのだ。

そういう意味ではブリングリングの主人公たちのような、どうしようもない悪者でも可愛げがあると思えてくる。

リリィ・シュシュのすべてと花とアリス

僕は世間で言うとこの「大人」にあたる。 成人を超えれば、社会ではそう認識される。 それがお約束。 僕が生まれるずっと前からの決まり事。 僕個人がどう言おうが、それは変えようのない事実。 これから2つの映画について記事を書こうと思う。 ネタバレを含むので注意して欲しい。 「リリィ・シュシュのすべて」 「花のアリス」 2つとも岩井俊二監督の作品だ。 どちらの主人公も、まだ社会で言うところの子どもであり、とても狭い世界の中を生きている。 まずは「リリィ・シュシュのすべて」から触れよう。 

 

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中学生というもっともあやふやな時期の少年とその周囲を独特な手法で描きだした作品。 イジメ、自殺、レイプ、援交といった過激なテーマが入り混じる不快でカオスな世界と、美しい光に満ちた田園風景がスクリーンに映しだされている。 素晴らしい映像美とは裏腹に内容は非常に不快極まりない。 特に市原隼人演じる主人公「蓮見雄一」が忍成修吾演じる「星野修介」のイジメグループにリンチまがいのイジメを受け、無理やり自慰をさせられるシーンなどは嫌悪感しか抱かない。 少なくとも今の自分。 大人になった自分はそう感じている。 ならば子どもの頃……ちょうど、中学生の自分ならばどう感じるだろう。 思い出してみると、少し感覚が変わってくる。 人とは違ったもの。 キッチュ【1】なものへの憧れがあった。 今思えば痛々しい趣味だが、僕はドクロのアクセサリーを身につけ、ヴィジュアル系バンドの曲をひたすら耳にし、まさに典型の中2病【2】というやつに感染していた。 ただ「特別」でいたい。 そういう時期だ。 道を外れた生き方に羨望の眼差しを向け、並の生き方には嫌悪を抱く。 周囲の大人がただただ邪魔なだけ。 ペシミスティック【3】な思考だけが肯定される。  そのくせ自分を嫌悪し、それを誤魔化すために他人を傷つける。 口は本音を語らない。 でも、誰かに気づいて欲しい。 自分で書いていて、背中が痒くなってくる。 多かれ少なかれ、思春期をむかえた子どもこのような症状がでてくるものだ。 あの映画の主人公たちも例外ではない。 皆、それぞれ違う境遇にいる中で、自身に嫌悪し、特別でいたいと願っている。 だかからこそ特別な誰かに自分を投影していく。 蓮見雄一、そして星野修介にとっても、それがリリィ・シュシュという作中に登場するアーティストであり、唯一の救いなのであった。 残酷な現実へのアンチテーゼ【4】であると言える。 どこかで自分をダメにしてしまいたい。一種の破滅願望。 生きることが怖く、死ぬことも怖い。 誰かを傷つけたい。誰も傷つけたくない。 矛盾が常に寄り添うのだ。 それを言葉にすることが出来ない。 だから蓮見雄一も星野修介もリリィ・シュシュの歌声の中で、ただ泣き叫ぶしかなかった。 大人の僕は子どもの彼らには選べない道を進むことが出来る。 だが、彼らには目の前の道しか進むことを許されていない。 それが子どもであることの理不尽さを表している。 理不尽なまま彼らは苦海を渡っていく。 悲しい悲しい「フィクション」である。 続いて「花とアリス」について触れる。

 

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これはありえないほど陳腐で、勘違いばかりの恋を綴ったお話だ。
「花の女子高生」とはよく言ったものだ。
桜が舞う4月に鈴木杏演じる「荒井花」と蒼井優演じる「有栖川徹子」はリアルな息遣いをしながら歩いて行く。
それは演技というにはあまりにお粗末。素人がただ歩いていると言っていい。
そこに「華」は感じない。
その素人感こそがリアリティを引き出してくれる。

リリィ・シュシュほどの不快感はこの作品にはない。
例えるならば、少女漫画のような世界だ。
恋というありがりなテーマにレトリック【5】な映像とリアルな脚色を加える。
それが花とアリスという世界を構成しているのだ。

彼女たちは嘘の恋と周囲の環境に苦悩する。
仕事へのプレッシャー、家族への不安、友情と嫉妬、淡い恋心。
大人になるまでには必ず経験することだろう。
思春期にありがちな悩みというやつだ。
子どもである彼女たちはそれらに対する答えを求めながら日々、生きている。
それがかけがえのない日々であるという実感を得るために、たくさん傷ついて、たくさん泣いて、たくさん笑うのだ。
やがて培った思い出を引き出しに仕舞って、大人になっていく。
それでも現実は確かに「其処」にあった。
記憶となってしまっても、過去になってしまっても、其処に存在していたのだ。
それがたまらなく愛おしい。 

子どもというものは、何とも残酷な世界で生きている。
逃げ道はなく、言葉というツールは飾りでしかない。
周囲に映る自分と本当の自分へのギャップに苦悩する。
誰も答えを教えてくれないし、当人も何を悩んでいるのか言葉に出来ない。
袋小路の中で、それでも何かに救いを求めて、また別の苦悩を味わう。
必死に生きるのか、必死に死ぬのか。
そんな言葉遊びに真剣になる。
夜中になると、ふとこのまま、一生の眠りについてしまうんじゃないかと怖くなる。
それでも眠くなるし、朝は来る。
僕はそれを繰り返しているうちに、いつの間にか大人になっていた。

子どもの頃に憧れたお酒やタバコは、今や普通に買える。
コンビニに行って、店員に差し出せばすぐだ。
しかしなぜだろうか、あんなに煌めいていたものたちはすっかり色あせてしまった。
リリィ・シュシュ花とアリスも僕には遠い遠いセピア色のフィクションにしか映らない。
それはまるで寂寞とした深夜の街のようで……僕はため息しかでてこなかった。

 

1世間で言うとこの陳腐、低俗なもの。サブカル。2自己愛を揶揄した言葉。3悲観的4反対の理論、主張5技術

ひさびさに雑記

ずいぶんと長い間、書かない日々が続いてしまいました。
私はデザイナーという職業をしているわけですが、正直つらいです。
つらい一番の原因は実力がないこと。その一点です。
実力さえあれば、他人がどれだけ喚こうが関係ありません。
気になりすらしないでしょう。
なら、どうすべきか。
努力するしかない。
答えは簡単なんです。動くかどうかだけ。

もとより他人にあれこれ言われるのは好きではありません。
なら、誰にも文句を言わせない実力を手に入れるしかない。
完全にコレは独り言です。
同時に誓いです。
私はもう力をつけるしか生きていく道がないのです。
他の道は選べません。
他に行くくらいなら野垂れ死んだ方がマシです。
誰にも負けない人間になります。
おやすみなさい。

小沢健二 流動体について


小沢健二 - ぼくらが旅に出る理由(Single Edit)

 

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つい先日、小沢健二が19年ぶりの新シングル 流動体について がリリースされました。
ほとんど前情報なしの発表だったので私も驚きました。
早速、購入し聞いてみました。
ああ、オザケンだなぁというのが率直な感想でした。
少し声が変わってましたね。時を感じます。
歌の下手さは相変わらずです。それがいい。
その後、ミュージックステーションで出演、NEWS ZEROでのインタビューも見ました。何だか、彼の魅力は良い意味で頭の良いところなのだと思いました。
大げさなイデオロギーをひっさげるわけでもなく、それでいて訴えかけてくる歌詞はセンスそのものです。

フリッパーズ・ギターを解散し、ソロとして活動をはじめた小沢健二はそれはもうダサいとしか思えませんでした。若者のカッコよさの象徴渋谷系からダサいポップスという世界に向かっていく。
鼻につくようなキザなセリフを必死に歌い続けました。
そんなダサい彼の姿は次第にカッコよさへと変貌していく。
爽やかで色鮮やかで斬新。
流動体についてには、その必死に歌い続ける小沢健二の姿がしっかりと刻み込まれていると思います。

 

 

藤子不二雄 ミノタウロスの皿

今日の晩御飯は何でしたか?
ハンバーグ?ステーキ?すき焼き?
どれも美味しいですよね
私達の暮らしにおいて食は切り離すことのできない大切なものです。
その裏でたくさんの家畜たちの死骸の山が築き上げています。
それは肯定されるべき常識として私達の意識に根付いています。
今回はそんな常識に対してのアンチテーゼとも言える作品を紹介しようと思います。

 

ミノタウロスの皿は藤子不二雄短編集に収録されているお話です。
ストーリーは宇宙船の乗務員である青年がイノックス星に不時着する所から始まります。イノックス星は牛の顔をした生命体ズン類が星を支配しています。そして、彼らの家畜として人間そっくりの生命体ウスが飼われていました。
ウスはズン類の言葉を理解し、普通に話もでき、知性も持ち合わせています。
地球での常識の中で生きてきた主人公の目には「牛が人を食べている」という残虐な食文化に映りました。

地球の牛は自分たちが食べられるために育てられているという自覚はありません。
しかし、ウスは自分たちがズン類に食べられるために育てられているという自覚があります。こうした私達の常識との差異によってより、青年はウスに感情移入してしまいました。
作中で、青年はウスの中で美しい容姿をもったミノアに恋してしまいます。
しかし、ミノアは間もなくズン類によって食されようとしていました。
青年はミノアやズン類を説得しようとしますが、まるで理解してもらえません。
青年は自分の常識で話をしており、それは彼らにとっては常識ではなかったからです。
ウスにとってズン類においしく食べてもらえることこそが誉れであり、誇りなのです。
どれだけ青年が言葉を尽くしても、理解などしてもらえません。
言葉は空疎にすれ違い、どこまでも交差しない現状。
これは現実にも起こりうるコミュニケーション問題でしょう。
言葉だけが通じても、その背景にある常識に差異があるのでは決して通じ合うことはないのです。どちらかが、相手の常識に合わせる必要があります。
その点において、主人公は徹底して私達の常識に囚われ続きてしまいました。
結果、お互いを理解すること無く、ミノアはズン類たちに食されてしまい、青年は涙を流しながら宇宙船でイノックス星を後にしました。


自分が絶対だと信じてきた常識や価値観が、立場の違うものにとっては無価値に成り下がる。自分のバックボーンがゆらぎ、パラダイムシフトが起こる。
この物語の根底にはそういったテーマがあります。
そして、主人公の立場は一貫して私達側でした。
本作のラストで主人公がステーキを頬張るシーンがあります。
ミノアの命を救えず、涙しながら平気な顔でステーキを食べるのです。
相手側の常識を少しでも意識したのなら、ミノアの存在と牛肉の本質は変わらないと感じ、ステーキを食べることに対して疑問や躊躇を覚えていたでしょう。
しかし、主人公は何の疑問も抱かず、ステーキを食べるのです。
何とも皮肉なお話です……


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コンセプチュアルアートとしての写真

コンセプチュアルアートと言えば最初に名が挙がるのは「マルセル・デュシャンの泉」。

あの有名な便器であり、アートって言えば何でもアートになるんだよぉ!!の元凶。

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かい摘んでこの作品の概要を説明するなら、どこにでもある便器にサインを書いただけの芸術作品。
それまでの芸術は私達が思い浮かべるような美しい絵画などを指す言葉でした。
そんな芸術に対する皮肉のようなこの作品は、その観念的な側面を評価され今日まで語り継がれるものとなりました。
このような作品そのものよりも観念的な側面を重視するアートをコンセプチュアルアートといいます。

 

この泉を皮切りに写真の世界にもそういったコンセプチュアルアートの考えが入り込んでくるようになりました。
1960年代から70年代にかけての写真の有り様は、パフォーマンスやその場限りの芸術作品をより多くの人に喧伝するための手段でした。
コンセプチュアルアートにおける写真のあり方は、写真の技術や誰が撮ったかではなく、物事を写すことを重視するようになっていったのです。

その結果、写真は記録をするための非芸術的な生産物のようになっていきました。
重用なのは写真で表現される行為そのものであり、その結果、スナップ撮影のような無造作に撮ったように見える写真が増えだしました。
これらの写真は、その場限りの芸術に変わり、ギャラリーや雑誌を飾るようになり、それが記録にもアート作品になりうる可能性を示すようになったのです。

こうしたコンセプチュアルアート写真は写真における芸術の基準を覆し、より平凡な日常の物事に寄り添うアート作品のあり方を示しました。
それまでの美しくなくては芸術ではない。技術がなくては芸術ではない。そう言った良いとされる絵を創る義務からの開放の瞬間でもありました。

写真が芸術の範疇に入ってきた時、それはアートの記録であると同時に作品そのものでもありました。この多義性こそが現代にも受け継がれ、今も想像力豊かに利用されている遺産としてコンテンポラリーアートに息づいているのです。

 

渋谷系ムーブメント

80年代となり、日本の音楽メディアはレコードからCDへと移行していく。
CDの普及により、流行曲だけでなく、過去にレコードとして発売された様々なジャンルの音楽があらたな形として世に出回っていくようになった。

そんな時代の動きをより加速させていく要因となったのは渋谷という町に集まるレコードショップの存在だった。タワーレコードやWAVEなどがその最たる例と言える。
外資系レコード会社によってかつては手に入らなかった海外の古い名曲の数々やインディーズ文化はそれまで聴いたことのない音を若者の町、渋谷にもたらしていく。
その動きはやがて高いリテラシーをもった一大ムーブメント「渋谷系」を作り出していくこととなった。

現代のJ-POPの基礎と言えるのがこの渋谷系である。
このムーブメントはその後のCDデザインに大きく影響していく。

アートディレクター信藤三雄率いるコンテムポラリー・プロダクションは渋谷系ムーブメントを語る上で欠かせない数多くのアーティストたちのアートワークを手がけていった。
何よりも斬新さを求め、70年代、80年代のデザインを引用し、新たな解釈として落とし込む。未開の地を開拓していくように様々な実験がそこで行われていったのだ。


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フリッパーズギターピチカートファイブコーネリアス
こういった渋谷系を代表するアーティストたち。
そして彼らのアートワークを作り上げてきた信藤三雄、北山雅和といったデザイナーたち。
彼らの世界観こそ今の日本の音楽デザインの経典であり、60年代のヨーロッパ、南米文化などの業界に新たな種を根付かせてきた。
その種は今もなおデザインの指標とされ様々な文化に多大な影響を与えている。

時代に呼応し変容していく
時代の垣根をこえるムーブメント
それこそが渋谷系の本質なのである。

 

 


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