読者です 読者をやめる 読者になる 読者になる

小沢健二 流動体について


小沢健二 - ぼくらが旅に出る理由(Single Edit)

 

banira11aisukuriimu.hatenadiary.jp

 

つい先日、小沢健二が19年ぶりの新シングル 流動体について がリリースされました。
ほとんど前情報なしの発表だったので私も驚きました。
早速、購入し聞いてみました。
ああ、オザケンだなぁというのが率直な感想でした。
少し声が変わってましたね。時を感じます。
歌の下手さは相変わらずです。それがいい。
その後、ミュージックステーションで出演、NEWS ZEROでのインタビューも見ました。何だか、彼の魅力は良い意味で頭の良いところなのだと思いました。
大げさなイデオロギーをひっさげるわけでもなく、それでいて訴えかけてくる歌詞はセンスそのものです。

フリッパーズ・ギターを解散し、ソロとして活動をはじめた小沢健二はそれはもうダサいとしか思えませんでした。若者のカッコよさの象徴渋谷系からダサいポップスという世界に向かっていく。
鼻につくようなキザなセリフを必死に歌い続けました。
そんなダサい彼の姿は次第にカッコよさへと変貌していく。
爽やかで色鮮やかで斬新。
流動体についてには、その必死に歌い続ける小沢健二の姿がしっかりと刻み込まれていると思います。

 

 

藤子不二雄 ミノタウロスの皿

今日の晩御飯は何でしたか?
ハンバーグ?ステーキ?すき焼き?
どれも美味しいですよね
私達の暮らしにおいて食は切り離すことのできない大切なものです。
その裏でたくさんの家畜たちの死骸の山が築き上げています。
それは肯定されるべき常識として私達の意識に根付いています。
今回はそんな常識に対してのアンチテーゼとも言える作品を紹介しようと思います。

 

ミノタウロスの皿は藤子不二雄短編集に収録されているお話です。
ストーリーは宇宙船の乗務員である青年がイノックス星に不時着する所から始まります。イノックス星は牛の顔をした生命体ズン類が星を支配しています。そして、彼らの家畜として人間そっくりの生命体ウスが飼われていました。
ウスはズン類の言葉を理解し、普通に話もでき、知性も持ち合わせています。
地球での常識の中で生きてきた主人公の目には「牛が人を食べている」という残虐な食文化に映りました。

地球の牛は自分たちが食べられるために育てられているという自覚はありません。
しかし、ウスは自分たちがズン類に食べられるために育てられているという自覚があります。こうした私達の常識との差異によってより、青年はウスに感情移入してしまいました。
作中で、青年はウスの中で美しい容姿をもったミノアに恋してしまいます。
しかし、ミノアは間もなくズン類によって食されようとしていました。
青年はミノアやズン類を説得しようとしますが、まるで理解してもらえません。
青年は自分の常識で話をしており、それは彼らにとっては常識ではなかったからです。
ウスにとってズン類においしく食べてもらえることこそが誉れであり、誇りなのです。
どれだけ青年が言葉を尽くしても、理解などしてもらえません。
言葉は空疎にすれ違い、どこまでも交差しない現状。
これは現実にも起こりうるコミュニケーション問題でしょう。
言葉だけが通じても、その背景にある常識に差異があるのでは決して通じ合うことはないのです。どちらかが、相手の常識に合わせる必要があります。
その点において、主人公は徹底して私達の常識に囚われ続きてしまいました。
結果、お互いを理解すること無く、ミノアはズン類たちに食されてしまい、青年は涙を流しながら宇宙船でイノックス星を後にしました。


自分が絶対だと信じてきた常識や価値観が、立場の違うものにとっては無価値に成り下がる。自分のバックボーンがゆらぎ、パラダイムシフトが起こる。
この物語の根底にはそういったテーマがあります。
そして、主人公の立場は一貫して私達側でした。
本作のラストで主人公がステーキを頬張るシーンがあります。
ミノアの命を救えず、涙しながら平気な顔でステーキを食べるのです。
相手側の常識を少しでも意識したのなら、ミノアの存在と牛肉の本質は変わらないと感じ、ステーキを食べることに対して疑問や躊躇を覚えていたでしょう。
しかし、主人公は何の疑問も抱かず、ステーキを食べるのです。
何とも皮肉なお話です……


f:id:banira11aisukuriimu:20161023191710j:plain

 

 

コンセプチュアルアートとしての写真

コンセプチュアルアートと言えば最初に名が挙がるのは「マルセル・デュシャンの泉」。

あの有名な便器であり、アートって言えば何でもアートになるんだよぉ!!の元凶。

f:id:banira11aisukuriimu:20070122095136j:plain

 

かい摘んでこの作品の概要を説明するなら、どこにでもある便器にサインを書いただけの芸術作品。
それまでの芸術は私達が思い浮かべるような美しい絵画などを指す言葉でした。
そんな芸術に対する皮肉のようなこの作品は、その観念的な側面を評価され今日まで語り継がれるものとなりました。
このような作品そのものよりも観念的な側面を重視するアートをコンセプチュアルアートといいます。

 

この泉を皮切りに写真の世界にもそういったコンセプチュアルアートの考えが入り込んでくるようになりました。
1960年代から70年代にかけての写真の有り様は、パフォーマンスやその場限りの芸術作品をより多くの人に喧伝するための手段でした。
コンセプチュアルアートにおける写真のあり方は、写真の技術や誰が撮ったかではなく、物事を写すことを重視するようになっていったのです。

その結果、写真は記録をするための非芸術的な生産物のようになっていきました。
重用なのは写真で表現される行為そのものであり、その結果、スナップ撮影のような無造作に撮ったように見える写真が増えだしました。
これらの写真は、その場限りの芸術に変わり、ギャラリーや雑誌を飾るようになり、それが記録にもアート作品になりうる可能性を示すようになったのです。

こうしたコンセプチュアルアート写真は写真における芸術の基準を覆し、より平凡な日常の物事に寄り添うアート作品のあり方を示しました。
それまでの美しくなくては芸術ではない。技術がなくては芸術ではない。そう言った良いとされる絵を創る義務からの開放の瞬間でもありました。

写真が芸術の範疇に入ってきた時、それはアートの記録であると同時に作品そのものでもありました。この多義性こそが現代にも受け継がれ、今も想像力豊かに利用されている遺産としてコンテンポラリーアートに息づいているのです。

 

渋谷系ムーブメント

80年代となり、日本の音楽メディアはレコードからCDへと移行していく。
CDの普及により、流行曲だけでなく、過去にレコードとして発売された様々なジャンルの音楽があらたな形として世に出回っていくようになった。

そんな時代の動きをより加速させていく要因となったのは渋谷という町に集まるレコードショップの存在だった。タワーレコードやWAVEなどがその最たる例と言える。
外資系レコード会社によってかつては手に入らなかった海外の古い名曲の数々やインディーズ文化はそれまで聴いたことのない音を若者の町、渋谷にもたらしていく。
その動きはやがて高いリテラシーをもった一大ムーブメント「渋谷系」を作り出していくこととなった。

現代のJ-POPの基礎と言えるのがこの渋谷系である。
このムーブメントはその後のCDデザインに大きく影響していく。

アートディレクター信藤三雄率いるコンテムポラリー・プロダクションは渋谷系ムーブメントを語る上で欠かせない数多くのアーティストたちのアートワークを手がけていった。
何よりも斬新さを求め、70年代、80年代のデザインを引用し、新たな解釈として落とし込む。未開の地を開拓していくように様々な実験がそこで行われていったのだ。


f:id:banira11aisukuriimu:20160202023356j:plain

f:id:banira11aisukuriimu:20160202023549j:plain

f:id:banira11aisukuriimu:20160202023555j:plain

f:id:banira11aisukuriimu:20160202023600j:plain

 

フリッパーズギターピチカートファイブコーネリアス
こういった渋谷系を代表するアーティストたち。
そして彼らのアートワークを作り上げてきた信藤三雄、北山雅和といったデザイナーたち。
彼らの世界観こそ今の日本の音楽デザインの経典であり、60年代のヨーロッパ、南米文化などの業界に新たな種を根付かせてきた。
その種は今もなおデザインの指標とされ様々な文化に多大な影響を与えている。

時代に呼応し変容していく
時代の垣根をこえるムーブメント
それこそが渋谷系の本質なのである。

 

 


人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

写真との関わり方

 

私は写真が好き。

瞬間的に捉えられた時間の流れが一枚の写真として浮かび上がってくる。

アンリ・カルティエ=ブレッソンの「決定的瞬間」という作品がある。

 

f:id:banira11aisukuriimu:20160113135333j:plain

 

彼の写真は次の瞬間に何が起こるのか、そういった見る側の中で想像を展開させていく。

ある出来事が、時間という動きの中で決定される前の瞬間を、その時間の流れを保ったまま映しだされる。それが、今にも動き出しそうな印象を見る側に与えるのだ。

普段、一瞬で消えてしまうものを記憶し、様々な人と感情の共有をする。

まさにそれこそが写真の本質なのだと思う。

 写真はその誕生の瞬間から常に「動的」なメディアとしてあり続けてきた。

カメラという機械の技術革新がその最たる例で、その後、大型カメラからライカのような小型なカメラが生まれ、徐々にフィルムからデジタルへと移行し、現代においてはスマートフォンをはじめとしたモバイル・デバイスでもハイクオリティな撮影が可能となったことで写真との接し方はかつてないほどの広がりを見せている。そして、デジタル化が進むことでネット上での展開が広がり、InstagramTumblrTwitterなどのSNSにアップロードされていく。

それは刹那的に私達の視界を流れていく。それが休むこともなく毎日続いているである。

写真はもはや生活の一部として私達に根付いている。

街に出れば、たくさんの広告写真が辺りを彩り、ネット上では大量に生産される写真の渦が待ち受けている。

人々は写真に感動し、商品を買えば、何かしらの行動に移していく。

最近の最たる例がトルコ砂浜に漂着した移民男児の遺体写真であろう。

写真は無慈悲と言える現実すらも私たちに共有させる。

その痛ましい現実に心動かされ、移民受け入れの流れがヨーロッパで出来上がっていくこととなった。

写真とはそれほどに強い力をもった存在なのだ。

 

 もしここから50年後までの未来を想像した時、写真と私達の関係はどうなっているのだろうか。

簡単に想像できることは、よりソーシャルメディア上でのコミュニケーションツールとしての存在感が増していくということだろう。

現代においてもフィルムカメラの需要は減少傾向にある。現像に時間がかかり、費用もかかってしまう。何より、即効性に欠けてしまう。SNSで刹那的に生まれていく写真の流れには追いつけない。

一方でデジタルは失敗してもいくらでもやり直しがきき、気軽に撮れる。そしてすぐに結果を見ることが出来る。そのうえで、やろうと思えばフィルターで素人でも簡単に様々な質感が出せてしまう。

写真の発表の場がネット上にシフトしていくということは便利であるがゆえに、そういった即効性が求められる。そうなってくるとはじめからデータとして存在しているデジタルカメラのほうがより合理的であるのだ。

だが、そんな流れに逆行しようという考えも確かに存在している。

ギャラリー、ブックショップ、ライブラリーなど複数の昨日をひとつに融合させたリアルなカルチャースペースの存在だ。

公的文化機関による運営のものや有志が集まるインディペンデント系など、母体は様々あるが、中でも注目されているのがダブリンではじまったThe Library Project(TLP)だ。

世界各国から集められた写真やビジュアルアートに関する書籍が数多く蔵書されている。

書籍コレクションを写真やコンテンポラリーアートのファンと共有できるスペースの創設が不可欠という認識からはじまったプロジェクトで、観光客も数多く訪れる立地を生かし、写真に関連したイベントを行う他写真カルチャーのハブとして機能している。

こういった運動は世界各国で行われており、日本でもそれは例外ではない。

代官山蔦屋などはその好例と言えるだろう。

 デジタルという便利さは天井を知らない。時とともに変化をし続けている。結果は即時に現れ、快感はすぐ訪れる。しかし、それは本当に刹那的に過ぎていく。50年後という時間の先には想像もできないような便利さに溢れているに違いない。しかし、その本質は変わらない。すぐ手に入る快感はすぐに飽きてしまうものだ。そして何より、たえず動き続ける写真の渦は見ていて疲れてしまう。

だからこそ、あえてフィルムカメラのような不便な存在から得られる、時間のゆとりが必要になってくるはずだ。あえて大判で刷られた写真や、写真集のリアルなでざわり、それを実際に顔をあわせて共有し合えるスペース。それこそが50年後という便利すぎて、たえずネット上で動き続ける世界の中でひとつの休息場になり得るのではないだろうか。そういった空間はたとえどんな先の未来であっても必要になってくると私は確信してる。

 

 

 


人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

ヤン・チヒョルト ニュータイポグラフィー

 アートディレクター 佐野研二郎氏がオリンピックエンブレムでの盗作疑惑は記憶に新しいと思います。彼の案がリエージュのエンブレムに酷似するということから、彼の昔の仕事の不手際にまで波が広がり、最終的にエンブレム撤回となる散々な顛末でした。

そもそも、最初に選ばれた原案が私達に公開されたものを改変したものである時点で色々と突っ込みどころ満載なわけですが、そんな「原案」が公開され、話題になった人物がいます。

デザインをしている人間なら知らないはずのない人物。

それこそがヤン・チヒョルトです

 

f:id:banira11aisukuriimu:20160104131223j:plain


この人の名前を検索すると佐野研二郎氏の盗作疑惑云々※1の面白くもない記事ばかりが出てくるので、ここで少しヤン・チヒョルトご本人のお話を書こうと思います

 

1928年にヤン・チヒョルトによって提唱された「ニュータイポグラフィー」は一枚の印刷物から、雑誌、書籍にいたるまで、すべての印刷物に対応するタイポグラフィーの原則を定めようとするものである。この考えは当時のドイツを中心に世界中に広まっていくことになる。

ヤン・チヒョルトはレタリング職人の父をもち、幼い頃から文字と触れ合っていた。やがて銅版画や製本技術、カリグラフィーなどを学び、ドイツで教鞭をとるようになる。

そんな彼に影響を与えたのがエル・リシツキーの構成主義であった。特にエル・リシツキーとマヤコフスキーの合作である詩集「声のために」の抽象的な形と文字の美しいバランスで作られたコミュニケーション手段は彼に衝撃を与えた。それが彼の中で「ニュータイポグラフィー」を生む要因となったのである。

 

banira11aisukuriimu.hatenadiary.jp

 

ニュータイポグラフィーの原理はいくつか上げられる。

ニュータイポグラフィーの本質は明快であること。中軸構成の原則の破棄。伝達の目的を強調し、論理的に活字の大きさやウエイト、色、写真などを要いて明快な表現にすること。

アシンメトリーにし、機能的でありながらリズム感を生み出す。色彩は装飾的に要いるのではなく機能的に要いる。背景は文字やフォルムは同じ価値の構成要素と考える。書体はサンセリフを基本とし、グロテスク、カーベル、フーツラ、ローマン、エジプシャンなどを用いる。

こうしたニュータイポグラフィーの考えは欧米など多方面のデザイナーに大きな影響を与え、現代にも深く根付いている。

彼を語る上で、もっとも重要なサボン(SABON)という書体がある。

 

f:id:banira11aisukuriimu:20160104131625j:plain

 

作られたのは1960年代。凸版印刷からオフセット印刷へ、そして金属活字から写真活字へと移行していく時代だった。しかし、機械組みは優れた手組みによる植字法には到達することが出来ず、長らく手作業が模範とされてきたなかで、機械組みに高い水準のものを求められることはなかった。正しく組まれた語は、すべてのタイポグラフィの出発点である。ニュータイポグラフィーの考えにのっとり、ヤン・チヒョルトは手組み、機械組み、どちらでも同一の品質を維持でき、写植にも適応するローマン体を設計した。それがサボン(SABON)である。彼がサボンを作る上で参考にしたものはギャラモンの活字であった。ギャラモンの活字に大きく関わったヤコブ・サボンの名前から命名されたサボンは20世紀を代表するローマン体として大きな評価を得ることとなった。

良い文字のデザインはデザインしたことに目がつかず、読みやすい。

当たり前に思うかもしれないその思想こそ、ヤン・チヒョルトが現代に残した最大にして偉大な功績なのである。

 

 

 

※1 2013年にgggで開催されたヤン・チヒョルト展のマークと佐野氏が選考にだしたエンブレムの原案が酷似するということが話題となりました。

 

 

 


人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村

写ルンですって写るんですよ

banira11aisukuriimu.hatenadiary.jp

奥山由之の記事を書いてから自分でもフィルムカメラを使いたくなってきたので、数年ぶりにフジカラーの「写ルンです」を三つほど購入し、撮影してきました。

f:id:banira11aisukuriimu:20151228024342j:plain

f:id:banira11aisukuriimu:20151228024421j:plain

f:id:banira11aisukuriimu:20151228024450j:plain

f:id:banira11aisukuriimu:20151228024527j:plain

f:id:banira11aisukuriimu:20151228024544j:plain 

f:id:banira11aisukuriimu:20151228024648j:plain

f:id:banira11aisukuriimu:20151228024742j:plain

f:id:banira11aisukuriimu:20151228024853j:plain

 

 

思っていたよりずっと良い味がでていると思います(自画自賛
何より細かい設定を必要とせず、瞬間的にシャッターを押せるというのがとてもいい
パンフォーカスなので素人でも使いやすく、その上軽いので必然的にフットワークも軽くなります

なにより私が気に入っているのはあのチープそうに見えるカメラの姿です
一眼カメラなどの立派な形のものを構えるとどうしても「撮るぞ!」というのを自分やモチーフ、モデルに主張してるようでどうも堅苦しい感じになってしまう
だがこのトイカメラのようなチープな形をした写ルンですはそんな威圧感を放つこと無く、安心して被写体と自分に距離を近づけさせてくれる
いい意味で安っぽいのが緊張感をなくし、自然体でラフな味のある写真が撮れるのだ

いま当たり前のようにスマホには高性能なカメラが付き、TwitterInstagramなどのSNSに投稿されていく時代です
写真がより身近となり、気軽に撮れ、すぐに結果が見れる
それはとても良いことだと思います
けれど、デジタルの速効性から少し距離を置いて、
あえて上手く撮れてないかもしれないし、もしかしたら偶然いい写真になっているかもしれない、そういった一種の緊張感と気軽さを兼ね備えたフィルムを楽しむのもまたカメラの醍醐味ではないだろうか
きっとデジタルとはまた違ったわくわく感が待っているはずだ



人気ブログランキングへ

ブログランキング・にほんブログ村へ
にほんブログ村